弁護士法人龍馬の命名由来

幕末のまだ日本が近代法治国家となる以前、坂本龍馬は交渉によって有利な結論を勝ち取るという仕事をしてみせた。この頃、日本にはまだ弁護士という職業はなかったが、坂本龍馬のこのような活動こそが弁護士業務の先駆けといえるのではないか。そこで、坂本龍馬の精神にあやかり、弁護士法人龍馬と名付けることにした。


龍馬が交渉によって有利な結論を勝ち取った著名な出来事として、いろは丸の沈没事故とイカルス号事件がある。前者は現在の民事事件の弁護活動、後者は現在の刑事事件の弁護活動に近いものがある。以下、それぞれどのような出来事であったのか紹介する。

 

いろは丸沈没事故

海援隊の発足と同時に龍馬が調達した船、いろは丸が、初航海で讃岐の三崎半島沖を進行中、紀州の明光丸に横から突き当たられて大破するという事故が起きた。いろは丸は相手の右舷灯(緑色灯)を右斜に見たので左に避けようとしたのだが、明光丸はルールに反して右旋回しながら進み、いろは丸の右横腹に船首をぶっつけたのである。

この事故によりいろは丸は沈没し、事故の賠償問題について話し合いが行われることとなった。

 

龍馬は、まず、御三家の1つである紀州藩と対等に交渉するため、土佐藩を交渉の場に引き出した。しかし、話し合いの場においても両船の進行方向が食違っており、衝突回避動作の是非を言うための出発点が一致せず、舷灯の有無や色についても違いが大きかった。

 

これに対し、土佐藩側は紀州藩側に、動かしがたい事実として、衝突時甲板に士官がいなかったことと明光丸がいったん後退したあと再び前進してぶつかってきたことを書面にまとめて確認させた。そして、土佐藩側が、「衝突沈没のことは、わが国ではいまだ判例がないので、イギリスの水師提督から万国公法による判例を求めてはどうか」と提案し、非を国際的に明らかにしたくなかった紀州藩が和解に応じることとなった。

 

このようにして、浪士結社に過ぎない海援隊であったが、大藩紀州を相手にした龍馬の交渉により、紀州藩が土佐藩に多額の賠償金を支払うことで和解が成立した。

 

イカルス号事件

長崎でイギリス船イカルス号の水夫が殺されて、その犯人が土佐人、それも海援隊の隊士であるとの疑いがかかった。自国の者を殺害されて憤っているイギリス公使パークスは、土佐が犯人を隠蔽しないよう自ら高知に出向いて圧力をかけようとした。

 

一方海援隊の者から事情を聞き、事件とは無関係であるという手ごたえを得た龍馬は、パークスと交渉し、長崎で徹底調査するということになった。

解決としては、土佐人、特に海援隊にかかっている疑いを晴らすしかなかったが、長崎にやってきたパークスの代理は、本気で土佐人を疑っており、事件前後の行動説明に食違いがあれば犯人だ、疑わしきは罰するという立場にあった。そして、長崎奉行に対し、疑わしい海援隊員の逮捕と裁判を求め続けた。

 

結局長崎奉行所の判断としてはおとがめなしということになり、海援隊関係者の事実上の無罪が確定した。

弁護士法人龍馬